昭和41年04月30日 夜の御理解
昔久留米に、48連隊という大変強い連隊がございましたですね。もうほんとにもう連戦連勝どこへ行っても負けた事がないというのが、自慢の連隊でした。そこにあの48の連隊旗というのは、もう連隊旗というても旗の形はしてないそうですね。あたしは見たことがないですけれども、中の旗っていのがもうもう無くなってしまっておる。もうふさだけ。ふさといわばはたのさおだけでしょうね。
いうほどにそのまあ戦いにも、何回もでましたしまたそういう、そのう激戦をしておるという、まあここまでのいわば連隊旗なんですね。旗の形ちがしてないもう旗っていうのがもう名ばっかり。こんなに戦ったんだとこんなにまあ強かっ強いんだという、そのしゅるしになる位だったそうでございます。きのうでした。久留米の野口さんが、お参りしてみえてきた。まああるほんとにあの修行な事が次々とあるんですね。
もうこれはもうこの事が、最近野口さんが心に感じておられる、ほんっとに有難き勿体無き、恐れ多きとおっしゃる、有難うならせて頂く為のさかなだと。分かっておる。もうこの修行は頂きぬきゃ、良いさかなになる事は分かってるんだけれども、辛抱に辛抱をしたというわけなんです。けれど、とにかくもう一口言わにゃおられんのが、一口が二口三口になって言うた後に、「ああしもた言わんにゃよかった」というて、失敗をしたという、お届けを昨日なさっておられました。
で帰られてからですね、ほんにもうやっぱそげんあるもんねと、あたくしも思いながら、そのことをまた帰られた後に御祈念させてもらいよりましたら、頂くとがですね、48のこれが連隊旗じゃろと思うようなのを頂くです。野口さん久留米のこんな形だろうと、こう思うんですけれどもね。や尊い事だと思うですね。お互いがもうこれはいわんぞと。こうはせんぞと。もう心に誓ってこれを修行と思うておる。
けれどもそれが、もうそれがのっぴきならない、もうどうにもできんもう辛抱ができん。こらえに堪えて堪えが出来んという所からです、いわばまあそれが失敗したに致しましても、その旗が破れましてもです、それは値打ちだとその所を、とおり通りすぎ、通り過ぎさせて頂きよる内にです。いわば竿ばっかりになる。総ばっかりになる。所謂そのいわんですむ、おこなわせんで済む様な、おかげも段々、頂けて来る様になると。
ですからここん所を皆さんがひとつ、信心で皆さんもそうであろうと思うんです。ああだこうだと神様に誓いながら、それが敗れてばぁっかりおるわけでしょう。その敗れ方がです、もうその例えば辛抱もせずに、もうこれは当たり前のように、なってしもうたらもうお終いです。取り澄ました様にして、いかにも形はですね、うんならその竿ばっかりで、したようであるけれども。
そういう辛抱も、そういう激戦の地も通らずにです、只竿ばっかりもっておって、わたしゃ強かつのごとしっとたんじゃ、値打ちはないと言う事。それでは神様認めて下さらないと言う事。ね、そこは人間だから。凡夫だから。ね、という神様のいわば、おおめに見て頂く事も出来ない。辛抱もせずに。こらえもせずに。ね。そこんとこを、ぐぐっと歯を食いしばっておる事も、ようせずにです、ね。
そしてその修行も出来ない事を当たり前のようにしておったんではですいつまでたっても、あたくしは値打ちのある修行にはならないと思う。折角なんか修行させて頂きましてもです、様々に矢張り繰り返し繰り返し、失敗を致しますけれども、ね、その繰り返し繰りかえし、失敗をしておるうちにです、いうならばねその旗もちぎれ、旗も破れてしまう様な事に、なってしまうんですけれども、その事が値打ちなんです。ね。けれども例えばそこをです、ね。
もう人間やけん、こん位事はしようなかと、いやぁ神様は、ね、そう言う事をいちいちとがめなさる様な事はなか、言いたいときは言うて。したい時はすると。と言った様なです、無節度の信心からはです、良いものは生まれてこないと、私しは思うです。そういう人たちが多いい事ね。私しはある先生からこんな事を聞いた事があるね。水行する事を修行と、しよんなさったね。寒中に水垢離とってから、その一生懸命信者の助かりを願いござった。所がある朝ふと、その自分の心の中に考えた。
「はぁこれはもうじゃぶじゃぶ水つかりよるが、勿体無い事じゃある」と。こんなに沢山水を使っちゃ、勿体無いとおもうて、それっきり水行を辞めたて。私しはもう聞いてからおかしかった。どうでしょう皆さん。ね。水行を例えばです、本当に例えばそのジャブジャブ朝水かかる。水垢離をとる事を神様が「あぁ惜しい事、あの水は惜しい事」と仰るだろうか。そんな事はないですよね。その一生懸命の修行こそ、値打ちがあるのですよ。それでもです。
それでもどうも今日はかぜの具合が悪い熱があるごた、それでもかかろうと思ったけれども、どうもご無礼しおてからすみませんと、例えばご無礼したと致しましょうか。そういうそしてあの時がんばって、頂き抜きゃ良かったと言う様な場合でも、それがあたくしは、本なことじゃなかろうかと、そう言った様な事をでけなかったというのであるね、ほんとに水が勿体無いから、水行しない。成程神様のお許しを頂いて、ね。
ようは水行を卒業してからの、ならよいけれどもお水が勿体無いから、なんじゃろかもう自分がもう、しるしなっとるとたい。そういうほんとにそれが、悟りであるならあとが御比例たったなん、助かりもせんならん。けれども助かりもなからなければ、御比例にもないとすんならば、そういう先生が、そういうかん考え方での修行で、おかげの頂けるはずはないて。成程もっともな話。ジャブジャブ水を掛りよったばってん、考えてみたら御水があんまりつこうちゃ勿体無い。
というてあたくしは、水行を辞めてしまうというようなです、ね、意気地のない修行では、ならそれが失敗してもよいです。又後から続かなけりゃいけん。そこがとをお詫びしてから、いわば一遍失敗しとらんの、次には二遍の例えばうんならですよ。まぁこれは水行の事になりますとです、なら前の日に水行をすす、ご無礼をして出来なかったならばです、あくる日朝晩かかったらいいじゃないか。というくらいな修行をなさらなければ、そう言う事での失敗がです。
私しはこう連隊旗が、段々弾の当たるたんびに、激戦にあうたんびに、千切れてなくなっていくと言う様な、おかげを頂いていく。一つの修行が成就する。その修行こそが値打ちのある、いわば連隊旗であるように、値打ちのある修行になっていくのじゃなかろうかと、こう思うです。ね。自分の身がかわいそう。ね。自分の?苦手な事ばっかり考えて、ね、もうこの位の事は当たり前と言う様な事にでもなったらです、もう信心に生き生きしたものを失ってしまいます。
それは失敗しても良いです。朝参りさせて頂こう。けれどもどうしても、ね。してこたえん。とうとうご無礼した。さあ3日が5日続きよると、それが当たり前んごとなってしまいよる。そういうことでは、いわゆる、値打ちのある連隊旗にはなりません。ね、ほんとに、もう、本当に自分がだらしがないもんじゃから、あしたこそは。また失敗した。ね、そしてそれが、3日も続けて失敗しよる様な事が続いてです。
これではいかんぞと、次の踏ん切りを付けて、また改めて初めからやり直すと言うような、私し修行からですいわば朝参りが苦にならん様になる所の、おかげを頂いてこそ、それが値打ちだと私は思うです。例えばならここでもそうです。私しが今午後から休ませて頂くんです先生も朝が、朝はようしてから昼から休みなさるけんで、あたども朝参り朝はよ起きしよばってん、昼休もうっちいってから休んだのは、丁度そのさお竹をにぎっとるようなものです。
私し達の場合なんかはそれこそもう、これこそ横にはならんぞと。眠り倒れるごたつちゃゃ眠らんぞ。と言うとこを一遍通って、通って通り抜いてから、いわばお許しを頂いてしておる事ですから、ね、中身が違うでしょうが。ね、果たして同んなじのようです。私も昼から休む、誰々も昼から休む理屈は同じ。朝起きたつも同なじ時間に起きとるというなら、同じ事の様であるけれども。
そこんとこの辛抱もし抜くこともようせずしといて、それをすんならば丁度、久留米の連隊旗を真似してから、旗はあげな自分でちぎって、おるようなものです。そしてそこで、悟り済ました様な事ではです、おかげになりません。どうぞ一つその辺の所をですね、よく矢張り様々な、心の上にも体の上にもです、辛抱のしきれんと言う事がございます。ね、だからそればもうつういっぱい歯食い絞っておるけれども、出来なかったというのを、神様がとがめなさる事はないです。
本当にそこまで言ってからなら。ね。それこそが溜まりたまって、値打ちになるのです。ね、出来んからというて、それでもう辞めたらもうおしまいです。ね、神様は初めから、そう言う事を求めたまう神様でもなんでもないけれども、こちらがそういう修行でもさせて頂いて、おかげを頂こうという気になったのだから、神様が言いなさったのじゃなかでしょうが。
自分がその気になったんじゃから、その気を矢張り貫かせて頂いてこそ、私しは神様から認められる所の修行にもなりゃ、又自分としてもです本当にようあそこ辛抱し抜いてよかった。倒れ転びじゃった辛抱しきらずに、失敗した事もあったけれども、あそこをあぁいうあぁして通り抜けたと言う事になって初めて修行の値打ちがあるのですよね。
どうぞ。